M日新聞より。
■RKBラジオデイズ:スマッシュ11への旅/3 ビートルズ、ビートルズ
「番組が始まった昭和44(1969)年というと、何をやってました」「17年前ですよね。まだ学生だったですよ」
1986年4月5日午前1時、RKB毎日放送のラジオ番組「スマッシュ11」の最終回が始まって間もなくチューリップの財津和夫がスタジオ入りした。福岡市内でのコンサートを終えて駆け付け、パーソナリティーの井上悟と昔話が弾んだ。
井上「どんな学生でした? 音楽バカで……」
財津「井上さんの後輩ですから、推して知るべし」
スタジオに笑いが広がった。2人は8歳違い。西南学院大学の先輩後輩にあたる。楽器こそ手にしなかったが井上もまた音楽に浸って育った。
井上は1939(昭和14)年、大分県杵築市生まれ。戦後、移り住んだ甘木市(現朝倉市)で少年時代を送った。
「旧陸軍の兵舎跡に進駐軍がいましてね。町で会う彼らはポータブルラジオを手にしていた。ロックンロールが流れて珍しくてね。家のラジオでFEN(極東放送)も聴けました」
NHKではクラシック。「家は貧しかった」というが井上の耳には音があふれていた。高校では音楽部で合唱もした。大学進学、「高校時代からの初恋の人(先輩)がいましてね。彼女が私に『あなたはアナウンサーに向いているんじゃない?』と言って『アナウンサー』という本をくれた」
少年時代のラジオ体験。「ばく然と放送の送り手の側にあこがれていましたが、アナウンサーは考えてもいなかった」。それでも新聞社の入社試験に落ち、間に合ったRKBなど民放2社を受けて合格した。
「当時、アナウンサーは標準語がしゃべれなきゃいけないというので東京出身者ばかり。RKBで地方出身は私が2人目でした。生まれた杵築はアクセント形態が東京に近い。それがよかったのかもしれません」
入社した1963年、RKBは旧岩田屋と西鉄福岡駅(中央区天神)のコンコースに九州初というサテライトスタジオを開く。道行く人がガラス越しに中のしゃべり手を目にした。ここからオンエアし、洋楽の人気番組となる「ペプシポップスタイム」に井上は起用された。
「驚いたのはリクエストはがきがビートルズ、ビートルズ。そして、日本で一番最初にビートルズの新譜がかかる番組になったんです」
レコード会社にとっては反応を知り、初版のプレス数を探るアンテナとして福岡が役立ったからともいう。そのうち、ビートルズ2作目の映画「ヘルプ!4人はアイドル」の完成を知る。新譜にならい番組を一緒に担当していた林幹雄、大関正矩の両アナウンサーと共に一計を案じた。
3人にとっての痛快無比な思い出のキーマンになった近藤源三(79歳)が語る。
「3人が頭をそろえて中洲にあった事務所に来ましてね、ヘルプの試写会をしたいという。一般向けでは国内で初となるのかな。支社長に諮って話を進めました」
近藤は配給会社、ユナイト映画の福岡宣伝担当だった。熱意は実り、試写会会場は当時、中央区渡辺通にあったRKBのスタジオだった。
「客席のスロープが急で映画館とは違う趣でした。女の子たちがスクリーンのビートルズに向かって叫ぶんです。東京の試写会も手伝いましたが東京ではスクリーンに向かって何かが飛んでいく。見ると下着でした。長く映画の仕事をしてあんな映画体験は初めてでした」
井上にとって「ペプシポップスタイム」は幸運な時代だったという。「それまでのポピュラーと言えば、フランク・シナトラやジャズ系ポップス。大人の音楽。当時のラジオは若者の音楽に対応できず、番組づくりを一番若い私たちにやってくれとなった。だから自由にできた」
このころ、井上は社のレコード室に入り浸り、どこにどんなレコードがあるのか、聴きまくって自らノートを作った。そして音楽史の大きな流れをつかんだ。ミュージシャンに慕われたスマッシュ11という番組への素地にもなった。
RKBラジオの歴史というより、福岡の民放ラジオの歴史を感じる連載記事ですが、当時のラジオのニーズと今のニーズを比較するのは酷ですが、テレビを見たくてもそない見られない時代も悪くなかったのではないかと感じさせられます。
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