M日新聞より。
■訃報:江藤慎一さん70歳=ただ一人の両リーグ首位打者
プロ野球の中日ドラゴンズやロッテオリオンズなどでプレーし、史上ただ一人のセ・パ両リーグで首位打者のタイトルに輝いた江藤慎一(えとうしんいち)さんが2/28、東京都内の病院で肝臓がんのため亡くなった。70歳だった。葬儀は3月5日午前10時、東京都品川区西五反田の斎場。喪主は三女・忍(しのぶ)さん。
熊本県出身。熊本商高から社会人の日鉄二瀬を経て1959年に中日ドラゴンズに入団した。1964年から2年連続で首位打者となり、ロッテ移籍後の1971年にも首位打者を獲得。セ・パ両リーグの12球団から本塁打も放った。1975年に太平洋ライオンズ(現・西武ライオンズ)で兼任監督を務め、ロッテに戻った1976年限りで現役を引退した。
現役18年間の通算成績は2084試合に出場、通算2057安打で打率287、367本塁打、1189打点。豪快なスイング、闘志をむき出しにしたプレーぶりなどから「闘将」と呼ばれた。
引退後の1985年には静岡県に「日本野球体育学校(江藤野球塾)」を設立。天城ベースボールクラブを経て、業務提携した社会人野球のヤオハンジャパンは2度(1994、1997年)、都市対抗野球大会に出場した。
▽現役時代に首位打者を争った張本勲さん 打撃技術はトップクラス。右打者で、右投手の外角へのスライダーを左中間に引っ張れたのは彼だけだった。年齢は違うが、同期入団で、新人時代に参加した日米野球で一緒に弁当配りをした時から、ウマがあった。豪快さが売りだったが、実は繊細で気配りの人だった。
▽中日の後輩の星野仙一・日本代表監督 私が新人の時に中日の4番打者で、打撃も私生活も豪快な人だった。でも、実際の打撃はものすごくミートがうまくて今で言えば安打製造機というのかな。お世話になった方が、また一人亡くなられて寂しい。
▽ソフトバンク・王監督 闘志を前に出す選手で人気があったね。豪快な人だった。また一人仲間を亡くしたよ。ご冥福をお祈りします。
江藤さんはどうしているのかなと気になっていたけど、静かに無くなられたようですね・・・・・。
現役引退後、プロ野球の指導者や解説者にならずに、アマチュア球界の指導者として一時期頑張られていましたけど、ヤオハンジャパンが倒産して野球部が無くなり、クラブチームとして「アムウェイレッドソックス」として活動するものの、こちらも2年ほどで無くなってしまい、近年は殆ど噂も聞くことが無かったのは残念です。
天城ベースボールクラブ時代からヤオハンジャパンに在籍していたのが大西崇之(中日−巨人[引退])、田中聡(元・西濃運輸)なんだよね・・・・・。
ちなみに、ヤオハンジャパンが2度目の都市対抗野球出場した時のエースは岡本真也(ヤマハ−中日−西武)でした。
自分は彼の現役時代は全く知りません。
日鉄二瀬は明治時代に官営八幡製鉄所[現・新日鐵八幡]二瀬出張所として開設されたもので、閉山になる1963年[昭和38年]まで運営されました。
当時あった二瀬町にあった炭鉱のチームで、1960年代に飯塚市へ編入となり町は消えました。
日鉄二瀬時代は捕手で、都市対抗野球史上初の完全試合をした村上峻介投手をリードした事も良く知られている話です。
色々、ごたごたして移籍しているだけに、一番の活躍したはずの中日ドラゴンズの本拠地・愛知県では恐らく40歳以下の知名度は非常に低いでしょうな・・・・・。
ほんまに惜しい人をまた失いました。
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■訃報:江藤慎一さん70歳=ただ一人の両リーグ首位打者
プロ野球の中日ドラゴンズやロッテオリオンズなどでプレーし、史上ただ一人のセ・パ両リーグで首位打者のタイトルに輝いた江藤慎一(えとうしんいち)さんが2/28、東京都内の病院で肝臓がんのため亡くなった。70歳だった。葬儀は3月5日午前10時、東京都品川区西五反田の斎場。喪主は三女・忍(しのぶ)さん。
熊本県出身。熊本商高から社会人の日鉄二瀬を経て1959年に中日ドラゴンズに入団した。1964年から2年連続で首位打者となり、ロッテ移籍後の1971年にも首位打者を獲得。セ・パ両リーグの12球団から本塁打も放った。1975年に太平洋ライオンズ(現・西武ライオンズ)で兼任監督を務め、ロッテに戻った1976年限りで現役を引退した。
現役18年間の通算成績は2084試合に出場、通算2057安打で打率287、367本塁打、1189打点。豪快なスイング、闘志をむき出しにしたプレーぶりなどから「闘将」と呼ばれた。
引退後の1985年には静岡県に「日本野球体育学校(江藤野球塾)」を設立。天城ベースボールクラブを経て、業務提携した社会人野球のヤオハンジャパンは2度(1994、1997年)、都市対抗野球大会に出場した。
▽現役時代に首位打者を争った張本勲さん 打撃技術はトップクラス。右打者で、右投手の外角へのスライダーを左中間に引っ張れたのは彼だけだった。年齢は違うが、同期入団で、新人時代に参加した日米野球で一緒に弁当配りをした時から、ウマがあった。豪快さが売りだったが、実は繊細で気配りの人だった。
▽中日の後輩の星野仙一・日本代表監督 私が新人の時に中日の4番打者で、打撃も私生活も豪快な人だった。でも、実際の打撃はものすごくミートがうまくて今で言えば安打製造機というのかな。お世話になった方が、また一人亡くなられて寂しい。
▽ソフトバンク・王監督 闘志を前に出す選手で人気があったね。豪快な人だった。また一人仲間を亡くしたよ。ご冥福をお祈りします。
江藤さんはどうしているのかなと気になっていたけど、静かに無くなられたようですね・・・・・。
現役引退後、プロ野球の指導者や解説者にならずに、アマチュア球界の指導者として一時期頑張られていましたけど、ヤオハンジャパンが倒産して野球部が無くなり、クラブチームとして「アムウェイレッドソックス」として活動するものの、こちらも2年ほどで無くなってしまい、近年は殆ど噂も聞くことが無かったのは残念です。
天城ベースボールクラブ時代からヤオハンジャパンに在籍していたのが大西崇之(中日−巨人[引退])、田中聡(元・西濃運輸)なんだよね・・・・・。
ちなみに、ヤオハンジャパンが2度目の都市対抗野球出場した時のエースは岡本真也(ヤマハ−中日−西武)でした。
自分は彼の現役時代は全く知りません。
日鉄二瀬は明治時代に官営八幡製鉄所[現・新日鐵八幡]二瀬出張所として開設されたもので、閉山になる1963年[昭和38年]まで運営されました。
当時あった二瀬町にあった炭鉱のチームで、1960年代に飯塚市へ編入となり町は消えました。
日鉄二瀬時代は捕手で、都市対抗野球史上初の完全試合をした村上峻介投手をリードした事も良く知られている話です。
色々、ごたごたして移籍しているだけに、一番の活躍したはずの中日ドラゴンズの本拠地・愛知県では恐らく40歳以下の知名度は非常に低いでしょうな・・・・・。
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この記事へのコメント
野球学校を作った頃はプロ選手のアマ球界への復帰は禁止されていたのと法的な問題が色々とあって、結果的には野球学校としての運営は断念し、当時静岡を拠点に全国展開をしていたヤオハンジャパンが運営費と、選手達を職場に派遣すると言う形で野球部を支援する形式へ移行しました。
ロッテへの移籍は水原茂監督との固執によるもので、確か一度自由契約による引退と言う形で移籍したはずです。
ロッテへの移籍は水原茂監督との固執によるもので、確か一度自由契約による引退と言う形で移籍したはずです。
現役時代の活躍は知らないのですが、野球学校を設立したことでどうしているのか気になっていました。
在籍した球団もロッテという印象が強いですね。
在籍した球団もロッテという印象が強いですね。
2008/02/29(金) 08:58 | URL | haya #-[ 編集]
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2008/03/02(日) 12:00:59 | 虎哲徒然日記














